心の港
30年ほど前、歌手のアグネス・チャンさんが、アメリカの大学院で学んでいた時のこと。授業で「家族のあり方」が議論のテーマになった。
理想の家族像を問われたアグネスさんが、「父親と母親がいて、子どもが何人かいるというのが基本型だと・・・・・」と言った途端、一斉に反論が。では、父親か母親に先立たれた家族は? 子どものいない夫婦は? 結婚しない人は?ーーー議論の中、自分の固定観念や偏見に気付いた。
帰宅後、3歳の長男に聞いた。「いい家族って、どんな家族かな?」。すると近づいてきて、小さい手を胸に当てながら言った。"思い出すと、この辺が温かいもの"。一緒にいなくても、血縁がなくても、さらに生死をも越えて"心を温めてくれる存在"が家族なのだと思い至った。
多様化する社会で家族の形もさまざまだ。それでも変わらない物は何か。先生は家族について「ありのままの自分を受け入れてくれる『心の港』と。」どんな人生の嵐に遭おうと、安心できる"よりどころ"があれば、人は力を得て、再び立ち上がれる。
人間をつなぐのは「形」でなく「心」。この血の通った絆を家族にだけでなく、地域に広げ、社会を潤すのが我々の運動だ
私は、必ずこうなる
夢を持つ人は美しい。夢の実現に生きる人はさらに美しい。
2016年の体験主張大会で、「冬の農業」を「地域の一大産業」にする夢を語った長野県の60代の壮年。幅24メートル長さ90メートルの巨大ハウス2棟で約9000株のトマトを通年栽培する。中でも、冬の厳しい寒さを乗り越えたトマトは果物のように甘く芳醇で「魔法のトマト」と大人気。この話を聞いた知人の紹介で、今、島根県最大規模のトマト団地を任されている。
兵庫県で酒米を作る70代の婦人は17年の同じ大会で、「我が家の"日本一の山田錦"で"日本一のお酒"を造りたい」と。彼女の夢を知った友人が尽力し、造り酒屋が決定。昨春に続き、今春も大吟醸酒ができた。今や市長も太鼓判をおす地域の名産品として、ふるさと納税のお礼の品にもなっている。
二人に共通するのは、皆の前で夢を語ったこと。心からの思いが声となって伝わると、自分一人の夢がみんなの夢に変わるのかもしれない。仏法の一念三千の哲学は、心の限りない広がりを教える。
夢を持つのに年齢は関係ない。「わたしはそんなふうにはなれない」と思えば、未来の自分を壊すことになる。「私は、必ずこうなる❗」と思えば、未来の自分をつくることになる。心一つで、人生はいくらでも開けていく。
抜苦与楽
ことわざには、逆の意味を持つものがある。例えば「待たれる身より待つ身」と「待つ身よりも待たるる身」。前者は待っ人のほうがつらく、後者は誰かを待たせなくてはならない方がつらい、という意味だ。実際、待つのも、待たせるのも、どちらもつらいもの。だが、「待つ」という行為に何らかの意味を見いだした時、単なる負の感情とは異なる"新しい価値"が生まれる。
鍼灸院を営む父の影響もあって、大学の医学部進学に挑戦しても合格を果たせない。彼は自分のふがいなさに消沈し、両親はそんな息子の姿に心を痛めた。
ある日、母は祈る中で気付いた。"「待つ力」は相手を「信じる力」だ"と。「私たち夫婦の祈りは、ただ息子の合格を待つ"受け身の戦い"ではないと思えたら、すごく力が湧きました」。その一念の変化に呼応するかのように、彼は勉強に一層奮起し、8年間の浪人生活に終止符をを打ち、ついに今春、医学部に合格した。
「価値ある人生の極致は、人間の信頼に応え報いようと、いかなる苦難にも屈せず走破していく果てに達するもの」と語っている。将来、"ドクター"として、抜苦与楽の実践に挑む彼の人生の指針ともなろう。
最も手強い強敵
東京のある地区の集いで、婦人が体験発表を行った。婦人は結婚後、住んでいるマンションの自治会や地域コミュニティーの活動に参加。約15年にわたる活動からは学ぶべき知恵が多かった。
当初は近隣と絆を結ぼうと思っても、なかなか踏み出せない。そこで大切にしたのが「あいさつ」。モットーは"自分から、元気よく、さわやかに"。一人また一人と友好を築き、地域活動に貢献する姿はグループの理解にもつながった。
「最初は臆病との戦い。今は惰性との戦い」と婦人。絆をさらに強めるには、いつの間にか陥っている"惰性"を破るしかない。"今まで通り"という安易さや"あの人はこうだから"という決め付けを排し、一歩踏み込んで相手と語りあえば、新しい世界が広がる、と。
昭和31年の「大阪の戦い」の折、一部マスコミが報じた。そんな中傷を歯牙にもかけず、関西の人々は朗らかに対話を展開。逆風を追い風へと転じ、金字塔を打ち立てた。
「強敵を伏して始めて力士をしる」と。「強敵」とは、他人や環境のことだけではない。むしろ、最もてごわい強敵は「自分」。新しいことをやるには、常に自身の弱い心に打ち勝つことから始まる。
生き証人の一人
水の都ベネチアはアドリア海に無数の杭を沈めてできた埋め立て地だ。美しい聖堂も邸宅もその上に立つ。しかし町を飾りたてても水上に暮らす「たよりなさ」は消えない。この地に立つとベネチア人の何百年もの孤独を足の下に感じると随筆家の須賀敦子さんは記す。
現代の東京も海を埋め立てながら広がった。臨海部にある夢の島公園に2日、都立第五福竜丸展示館がリニューアル開館した。65年前、米国の水爆実験で被曝した第五福竜丸の船体を保存・展示し、核の恐ろしさを伝える施設だ。廃船にされたこの木造船は、当時ゴミの集積地だった同館の周辺にしばらく放置されていた。
「やめてくれ」。ヘドロまみれの船体を後世に残すと聞いた元乗組員の大石又七さんは思った。船上で「死の灰」を浴びた記憶がよみがえる。仲間の死、病気や差別への恐怖。口をつぐんだが、船が市民らの手できれいにされ、展示館が1976年に完成するとぽつぽつ体験を語りだす。85歳。わずかな生き証人の一人だ。
須賀さんがベネチアの歴史をたどる手がかりは過去の記憶を宿す河岸の名や石碑、そして友人の回想だった。東京臨海部では 高度経済成長期のゴミの埋め立て地が公園となり、次の五輪開催を前に競技場整備め進む。小さな展示館に収まったモノや人の肉声だけが足元の歴史を語り、埋め立て地の「たよりなさ」をぬぐう。
気迫と執念の行動(
令和最初の大相撲は、平幕の朝乃山が優勝を飾った。富山県出身の力士の優勝は、明治から大正にかけて活躍した横綱・太刀山以来、実に103年ぶりである。
朝乃山は小学生の時、太刀山の遺族の寄付によって誕生した「太刀山道場」に通った。しこ名の「山」は、「太刀山」の意味も込められている。56連勝や、幕内での確率が約9割に達するなど、太刀山は抜群の強さを誇った。
「四十五日(一月半)」ーーー 太刀山の突っ張りはそう呼ばれた。「ー突き半」で相手を 土俵の外に飛ばしたからである。相撲では「押して勝つ」ことが極意いわれる。相手がどう出てくるのかを待つのではなく、先ず自らが前に出て、攻め抜いていく。この鉄則はあらゆる勝負の世界に通じよう。
昭和31年(1956年)の「大阪の戦い」が終盤に入った6月12日、新たな一つの祈念を加えた。それは、「大阪のいかなる人であれ、このたびの戦列に加わって、味方となる」こと。この"敵をも味方に変える"気迫と執念の行動が、"まさかが実現"の勝利を開いた。
6月へ、「いよいよ・はりあげてせむべし」と、勇んで nTech で平和と幸福を開く対話に挑みたい 。
無限の可能性
幼児教育や高等教育の無償化が進められている。19世紀のフランスでも、教育の無償化を訴えた政治家がいた。文豪ビクトル・ユゴーだ。
議員としても活動した彼は、貧困を根絶するには教育改革が欠かせないと主張。初等教育を義務教育にすること、初、中、高等教育を全て無償とすることなどを訴えた。
「子どもの本当の名前は何か、皆さんはご存知だろうか」ーーーちょうど150年前の1869年、ユゴーは、ある集いで大人たちに問い掛けた。「それは『未来』である。」「子どもの心に種を蒔こう。正義を与え、歓喜を与えて上げよう。子どもを育てながら、我々は『未来』を育ているのである」
子どもは「未来」。であるならば、未来から過去を振り返った時、どのような言葉を掛けられ、どう向き合ってもらえたか。試されているのは、むしろ現在の大人の側であろう。赤ん坊にさえも、人々を幸福へ導く指導者と育ちゆく、無限の可能性を見つめられた。未来を楽しみに、若き心に希望の種を。